篠本賢一より

全段通しリーデング仮名手本忠臣蔵(2014年)パンフレットより

人形浄瑠璃、歌舞伎の名作『仮名手本忠臣蔵』、この魅力溢れる作品を現代演劇のレパートリーにすることはできないかと考え、「全段通しリーディング仮名手本忠臣蔵」と銘打ちスタートし、今年で三年目を迎えました。

江戸時代、実際に起こった事件を芝居などで取り上げることは、幕府に禁じられていました。『仮名手本忠臣蔵』は、元禄十四年(1741)の松の廊下の刃傷事件から四十七年後の寛延元年(1748)に竹田出雲、三好松洛、並木千柳らによって書かれました。元禄赤穂事件もある意味武家社会のスキャンダルともいえる事件であり、これを取り上げることは幕府批判になりかねないことから、作者は注意してこの事件を脚色したようです。「大石内蔵助」は「大星由良助」に、「浅野内匠頭」は、「塩谷判官」に、「吉良上野介」は「高師直」と いった具合に変更されています。ときどき、「忠臣蔵」なのに「大石内蔵助」が出てこなかった、刃傷の場面が江戸城でなく鎌倉だった、など疑問に思われる方がいらっしゃるようですが、それはそういった事情からなのです。しかしながら、史実を基に巧みな構成によって、魅力的なドラマとなりました。

全段通すことで見えてくるドラマの醍醐味。リーディングと銘打っていますが、 それは動きを伴う演劇の一歩手前ということではなく、通常のドラマのもう一歩先を行く「ことばの劇」として、ご堪能いただければと思います。

幕末に歌舞伎が隆盛したここ浅草で、私たちの『仮名手本忠臣蔵』をお楽しみ頂けたら幸いです。

 

 

J-THEATER公演「溟い海」パンフレットより

嫉妬は、恋愛のもつれからなどと連想して主に女性に当てはまることばのように感じられますが、男性の嫉妬も実は相当に根が深いようです。世を見渡 すと、スポーツ選手、芸術家、政治家らにその厄介な感情が見え隠れすることがあります。自分の実人生を鑑みても、そういった感情に振りまわされた ことはなかったとは言い切れません。古今東西、人間を変えてしまうほどのこの恐しい感情をテーマにしたドラマが数多く作られてきました。シェイク スピアの「オセロ」は、浮気を疑った夫が貞淑な妻を殺してしまうし、ピーター・シェーファーの「アマデウス」では、宮廷作曲家サリエリが天才モー ツァルトに嫉妬し若き才能の芽を摘もうとします。小説「溟い海」では、かつて富嶽三十六景で一世を風靡した北斎が、新進気鋭の広重にただならぬ感 情を抱きます。しかしながら、そもそも嫉妬とはどんなものなのでしょうか。それはたとえば、「自分が何かを求めているとき、それを身近なものに奪われそうになったときにおこる感情」と言えるかもしれません。この場で嫉妬について考え始めたらきりがないのでこの辺でやめておきます。さて、今回、小説「溟い海」をリーディング・ドラマとして再構成しようとしたとき、この作品の構造の見事さに感心しました。読者にとって平易でなじみやすい文章のなかに作家の緻密なリズム、組み立てを見つけました。ですから、演出プランを立てるのは、作家の作ったパズルを紐解くようで楽しい作業でした。でも、この作品は藤沢周平にとって、まさに文壇に華々しく登場し、名を成した作品ですから、観客の皆様のなかにもこの小説を愛読している方 は少なからずいらっしゃるはずです。果たして、藤沢周平ファンのイメージを損なわずに、しかも新鮮な響きを生み出すことがこのステージでできるかどうか、とても気になるところです。最後までお楽しみいただけたら幸いです。

 

 

「外郎売ワークショップ」より

「外郎売」というとたいてい、早口言葉のあれでしょ、という反応が多いのです が、「外郎売」は意外に奥が深いんです。バレリーナが毎日、バーレッスンで 体を点検し鍛錬するように、ピアニストが日々鍵盤に向かうように、俳優はもっ と外郎売を活用して、日々言葉に磨きをかけるべきだと思っています。「外郎売」は、台詞をしゃべるときに必要なテクニックをトレーニングするのに最適なツールです。一般的に言われる滑舌や発声の訓練だけではなく、文章の構造を分析し、その組み立てにしたがって如何に内容を伝えることができるか、しゃべりながら聞き手の反応を感じることができるかなどなど、台詞のさまざまな問題が約7分間に凝縮されています。言葉のもつ論理性と音楽性の両面を兼ね備えた「外郎売」。世界中を見渡してもこんなに効率よく総合的に言葉のトレーニングができるテキストはありません。 しかし、ツールは使いこなしてはじめてその価値が出てきます。かつて古典芸能を学び、現代演劇と古典芸能の接点を求めて演出作品を作っている経験 から、「外郎売」を丁寧に紐解き、俳優の日常訓練のツールとして使いこなす方法をお伝えしたいと思います。

 

 

「全段通しリーディング 仮名手本忠臣蔵」パンフレットより

人形浄瑠璃、歌舞伎の名作『仮名手本忠臣蔵』、この魅力溢れる作品を現代演劇のレパートリーにすることはできないか、このたびの企画はそんなことを考えての試みで、昨年に続き、今回が二度目の上演となります。

もともと人形浄瑠璃からはじまった『仮名手本忠臣蔵』ですから、台本には、「せりふ」以外に「地」というものがあって、人物の行動、情緒、あるいは、情景が描かれています。人形浄瑠璃では太夫という語り手が「せりふ」とともに「地」を語り、人形が所作を表現します。また、人形浄瑠璃を歌舞伎にした所謂「丸本」歌舞伎では、「せりふ」は役者が所作を交えて言い、「地」は太夫が語ります。場面によっては太夫が「せりふ」も言うことがあります。現代演劇として、この「地」を如何に表現するかがこの企画の課題のひとつですが、今回の演出では、「地」を役者と語り手が分担することにしました。これは映像表現におけるアップ、ロングのような効果を狙ってのものです。

『仮名手本忠臣蔵』は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳ら『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』などの名作を残した三人組の共作ですが、「塩谷判官」「早野勘平」「加古川本蔵」らのエピソードは、三人それぞれが担当し、それをつないで一つの物語にしたということです。「塩谷判官」は、史実の浅野内匠頭のようですが、実はそうではありません。本来、桃井若狭助が負うべき運命をとある偶然から被ってしまった不運な男。「早野勘平」は、色に耽った負い目から何とか挽回を図ろうとしますが、これも運命に弄ばれ、命を落としてゆきます。「加古川本蔵」は、主人大事を思う行動をとりますが、やはり運命のいたずらか、偶然居合わせた長廊下での一件から「忠義にならでは捨てぬ命、子故に捨つる親心」という「忠臣」の逆をいくような行動をとらざるを得ぬ事になってしまいます。大星由良助の仇討を主筋にしながら、これらの人物のドラマをからめたからこそ、『仮名手本忠臣蔵』は、今に残る名作になったのだと思います。

幕末に歌舞伎が隆盛したここ浅草で、私たちの『仮名手本忠臣蔵』をお楽しみ頂けたら幸いです。

 

 

「子宝善哉―産んで殺すも、産まずに殺すも、ひとでなしー」チラシより

インドの神話「ラーマーナヤ」のなかに、ハヌマーンという猿に似た神が登場します。そのハヌマーンのモデルといわれるハヌマンラングールという猿は、今でもインドの寺院などで放し飼いにされ、神話につながるいきものとして珍重されているらしいのですが、この猿はその生態にある特殊な習性があったため、最近注目されました。群れをつくって暮らすハヌマンラングールのボスはハーレムをおよそ2年間支配しますが、戦いの末、ボスが交代すると、新しいボスは早速子どもを作ろうとします。ところがメス猿は、以前のボスの子の授乳期であると発情せず子を作ろうとしません。そこで新しいボスは、その子猿を殺してメスの授乳を中断させ発情を促し、自分の子を作らせるというのです。この行動は、動物は同種を殺さないとしていた学説を一変させるきっかけともなりました。

さて、われわれ人間はどうなのでしょう。現在、先進諸国と言われる国々では、子どもの人権は保障されています。しかし、子どもが理不尽な事情でその生を全うすることができないことは多々あります。かつては到る所で親の子殺しが公然と行われている時代がありました。日本でも江戸時代には、食料を確保するために間引きが行われていました。当時、親には子どもを捨ててしまえる権利があると考えられていたのです。そして、現代では――衣食に窮しているわけではないのに、親のエゴイズムにより子どもが殺されてしまうことがあります。殺されてしまった子どもは、いったいどんな言葉を発するのでしょうか。今回の舞台ではそんな子どもたちの叫び声が、私たち大人の胸に響き渡ることでしょう。

 

 

「詩×劇 未来からのことばーもし成就するならばー」パンフレットより

震災直後、和合さんが「詩の礫」をツイッターで投稿し始め、それを読んだとき、衝撃を受けました。

 

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。

放射能が降っています。静かな夜です。

 

普段泣き顔を見せたことがない友達が、突然目の前で、声をあげ泣き崩れたような戸惑い。これは只事ではないと感じ、仲間を集めて言いました。「和合さんが大変なことになっている。これを芝居にしよう。」

世の中がまだ騒然としていて、現実の問題が日々深刻さを増している時期、上演を危惧する声もありましたが、震災から四か月後の七夕の日に「詩×劇 つぶやきと叫びー深い森の谷の底でー」を上演、そして、震災から一年後の昨年三月、和合さんのホームグラウンドともいえる仙台文学館で、再びそれを東京と仙台の演劇人の共同作業により、上演しました。

「詩の礫」以後、和合さんのことばは詩であると同時に、傷を負った者の痛切な叫び声、あるいは傷を負った者への癒しのことばのようでした。かつてのシュールな作風は、もうそこにはありません。長いこと和合さんの詩に触れてきたものにとって、それらは、和合さんのことばの避難所、ことばの仮設住宅のように感じられました。

そこで「詩×劇 つぶやきと叫び」に続く「詩×劇」シリーズの新作を、和合さんがかつて書いた現代詩でやろうと考え、作品の構想を練っていた矢先、和合さんから、新しい詩を書き始めているとの報せを受けました。その名も、

「廃炉詩篇」――

震災を体験したあと、被災地の方々の体験に耳を傾け、世界中に「礫(つぶて)」を発信し続けたのちに生まれたこの詩から、新たな和合さんの声が聞こえてきました。現実の世界に向き合った力強さと執念、まさに筆の力で世界を動かそうという気迫に満ちたものに感じられたのです。ならば、和合さんの現代詩をテキストにしてきた「詩×劇」という仕事もそれに応えるものにしなければなりません。それが今回の「詩×劇 未来からのことばーもし成就するならばー」です。

これからの時代に演劇をどう続けて行けばいいのか。自らに問いつつ、稽古を続けました。さて、舞台から客席にいったい何を届けることができたのでしょう。

 

 

「室内オペラ 夕日の耳」パンフレットより

 今回、「夕日の耳」を演出するにあたって留意したことは、器楽、歌唱、舞という異なる三つの要素をどのように融合させ、一つの世界にまとめていくか、ということでした。それぞれの表現要素が、でしゃばらず、しかも、埋没することがないように設定できるか、そこに私の仕事があったといえましょう。

 舞台芸術において大切なことは、パフォーマーの提示する表現が、観客の想像力を如何に刺激しイリュージョンを抱かせることができるか、だと考えています。そこで今回、舞台空間に余白をたくさん作り、その余白に観客の皆さまが想像力を駆使して、このオペラの世界を想い描いて頂けるように構成してみました。一見空虚な空間が、豊饒な空間に変貌するかどうかは、パフォーマーの表現とお客様の想像力が、見事に融合できるかどうかにかかっています。異なる要素が見事なコラボレーションを果たすには、お客様の想像力が必要だということです。

 本日のステージで何もない空間に、様々な情景、情感が立ち現われるよう祈りつつ。